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浜殿祭(浜出祭)  700年以上続く、元寇に由来するお祭り。山の神と海の神のデートではなかった!

先日の 新春放談会 からのスピンオフ記事なんですが、ネタとしては超ォローカル。
キーワードはドメジャーなお話です。

地元で7年に1度開催される「浜出祭」というお祭り

コレは、私が幼い頃から、家族や周りの人に聞かされてきた、お祭りの由来です。

  • 7年に1度、私たちの住む地区の山の神様と、海の神様をデートさせるお祭り
  • なぜ7年に1度かと言うと、最初にデートした帰りに、海の神様が「また1(いち)年後に会いましょう」と言ったのを、山の神様が「7(しち)年後に会いましょう」と聞き間違えたから
  • このお祭りの起源は、鎌倉時代のいわゆる「元寇」で私たちの町に攻めてきた元軍の霊を弔う行事

そして実際、このお祭りでは、こんなコトをします。

  • 私たちの地区では、神社で山の神をお神輿に載せて、昔の衣装を身につけた大行列で、海までの約18kmを徒歩で移動する
  • 海側の地区も行列を編成して、途中まで出迎えに来る
  • 各地で神事を行いながら、途中で山・海の行列が合流したら、ひとつの団体になって行列を編成し、海まで移動する
  • 海に着いたら、花神子の舞や蟇目(ひきめ)行事、鰤切りなどの神事を行う
  • 最後は県民が愛してやまない餅まき

動画でご覧になりたい方は、↓こんな感じです。

動画には密かにチョイチョイ私も登場しています。

なかなかの大規模なお祭りです。往時の衣装を身に纏い、馬も引き連れて編成する長い長い行列は、7年に1度、必ず見ておきたい、見応えのある光景です。

歴史的に考察した浜出祭 〜弘安の役〜

という前段のお話がありまして、今回の放談会で改めて、地元の郷土文化友の会 会長であり、大学の名誉教授でもある先生から、歴史的背景から浜出祭の由来を伺いました。

上の図は、元寇の、教科書で習ったレベルで言うと2回目の方、弘安の役のルートです。
左上、太い線の始まりが、朝鮮半島の合浦(がっぽ)。弘安4年(1281年)の5月3日に合浦を出発した900隻の元軍は、対馬、壱岐を経由して、そのうちの300隻が6月5日頃、長門北浦に来襲します。その兵力は13,000人前後と推定され、そのうちの8,000人〜10,000人が土井ヶ浜一帯に上陸し、内陸に侵攻したとされます。

迎え討つ長門探題軍は、激戦を繰り返しながらもジリジリと撤退、私の住む山合いの地区まで攻め込まれます。

後に「鬼ケ原」と名付けられる一帯で乱戦となり、いよいよ長門探題軍の敗色濃厚…となった時、急報を受けた幕府有力御家人の 安達宗盛、安藤重経、合田五郎の一隊が救援に駆け付け、一気に探題軍有利に形勢が逆転します。

これを見ていた元軍の大将、言い伝えでは身の丈7尺(約212cm!!)の偉丈夫だったとされる阿金が川を渡って鬼ケ原に駆け付けようとした時に、近くの厳島社方面から射られた白羽の矢が阿金の首に刺さり、阿金がドッと川に倒れ込んだところを探題軍が討ち取って、元軍は土井ヶ浜方面へ敗走したとされています。

この一連の攻防の中で生まれた地名として、先の「鬼ケ原」の他に、「八千原」や「五千原」があります。これはそれぞれ、8,000人/5,000人 が戦った、或いは討ち死にしたとされる激戦地であったことに由来します。実際に「蒙古塚」と呼ばれる塚が残っていたり、「沖田の森」と呼ばれる森には、元軍兵士の死体を埋めており、人々はそこに近寄らないようにしていた、とも言われています。また「土井ヶ浜」はもともと「土居ヶ浜」と表記されており、「居」の文字から砦などがあった防衛の要であったことが伺えます。同じように「殿居」にもおそらく当時の砦が築かれていたのでしょう。
油谷湾にも元軍が攻めてきており、「上陸(元軍が上陸した)」「矛﨑(元軍が矛を突き立てた)」「高塚(敵将の死体を埋めた)」などの地名が残っているそうです。

一方、博多湾では6月27日から元軍と幕府主力軍が激戦を繰り広げ、元軍優勢でしたが、幕府軍の夜討ちを警戒して、元軍は毎夜軍船で宿泊していたそうです。ここへ6月30日の夜半に大型台風が博多湾一帯を直撃し、元の大艦隊は波間に沈んでしまいます。この時難破した元軍の船は一部が土井ヶ浜に漂着したそうですが、守備兵がこれを撃破したとされます。

元軍のタタリと浜出祭

弘安の役から数年が経ち、この地域に疫病や牛疫が流行し、人口が激減する事態に陥ったそうです。人々が神のお告げを祈願したところ、蒙古(元)の悪霊の祟りである、とのお告げであったので、阿金を討ち取った厳島社から、勇壮な武者行列を編成して、海の夷社まで練り歩き、この威厳によって悪霊に力を見せつけ、押さえつけることにしました。これが浜出祭の本当の由来ということです。

当時、悪霊は年々その怨念の力を強め、8年目に災いを起こすと考えられたため、7年に1度、キッチリ悪霊をビビらせて、萎縮させる、というものだそうです。これが時代とともに変容して、現在の形式になりました。例えば現在は花神子も山の行列、海の行列にそれぞれいて、夷社では舞を披露しますが、これは花神子を平和の象徴として、この地方の子孫繁栄を祈念したものです。

俗説と習わし

それじゃあ冒頭の、私が習ったメルヘンチックな神様のデートのお話は…?

今回お話を伺った先生によれば、町の教育委員会が昭和58年に出版した記録に、県の文化財審議委員の意見書が含まれていて、それによると、この浜出祭は1738年に執行されたとする記録が最も古く、山の神と海の神の陰陽和合の出合祭りである、とされているそうです。先生はこれに大変憤りを感じておられます。元寇による元軍死者の怨霊に対する畏怖と鎮魂、郷土の復興、繁栄を祈願する730有余年の歴史をもつ伝統行事に、そんな卑猥な解釈をつけるなど!ということです。

この話を伺った私の解釈は、起源は元寇で間違い無いでしょう。しかし先に先生も述べられたように、時代とともに変容して、花神子が平和を象徴し、子孫繁栄を祈念する一面も備えてきた、と。子孫繁栄とするならば、そこに神様のデートとする俗説はあって良いんじゃないかな、と。偶然流行った疫病に元の悪霊を結びつけたのも、8年目に災厄をもたらすとしたのも、結局は誰かが言い出したことを皆が信じた、って点では同じことでしょう。神輿守を2回もさせていただいた私は、「神様をデートに連れてく乗り物を担いで練り歩いてるんだぜ、オレ」って気分で良いじゃん、と思うのは、罰当たりなのかしら、現代っ子すぎるのかしら…。

そもそも「浜出祭」という表記も、正しくは「浜殿祭」なのだそうです。「浜出祭」とは、元旦に宮司が浜に出て初潮を汲み、豊作祈願をして氏子に分け与え、田に振りまかせる神事なのだそうで、ここまで話している祭りは、正しくは「浜殿祭」と書いて「はまいでさい」と読むのが本当だそうです。同音異義語が、いつかごっちゃになってしまったのかな。

先にも紹介した、夷社で行う神事の中に、「鰤切り神事」というのがありますが、これは動画の中でも見ることができます。裃をまとった男が、串と包丁を用いて、鰤に触れることなく捌きます。
この神事の意味を、これまでの由来と併せて再度考えてみると、勘の鋭い方はもうお分かりかもしれませんが、これは鰤を元軍の大将に見立てているのです。
最初に串を突き立てた鰤を頭上高く掲げ「コレ見たかァ〜ッ!」と叫びます。これで悪霊たちに、大将を討ち取ったことをアピールしているのです。

ちなみに、ココにも俗説がひとつあります。
鰤を捌くのは、山の人間です。調理するのは、海の人間です。
実はあまり、山の人間と海の人間は、仲が良くなかったそうです。この祭りを巡っていざこざがあったかどうかは知りませんが…何しろ、表面上はお互い祭りを一生懸命やっている。が、内心ではいがみ合っている。
ここで、海の人たちが調理した鰤が、山から来た一行に振舞われるわけです。

そう、コレがクッソまずいのです。

こうして嫌がらせをしているのです。
…という俗説です。真偽は分かりません。

今でも、昔のレシピに則って調理されているそうですが、角切りにされた鰤の刺身が酒粕か何かで薄く味付けがしてあって、ひどいモンです。できれば醤油だけで食べたい良い鰤なんですが、例えるなら、誰かが酒と一緒に丸呑みして、しばらく走って気分悪くして吐いたものが皿に載って出て来ているみたいな感じです。

感動した、伝説の浜出祭

先生が最後に紹介されたエピソードが感動的でした。

それは、昭和23年の浜出祭です。

戦後で物資もなく、浜出祭を開催するか否か、山の人たちと海の人たちで話し合ったそうです。
そして、やはり山から海への完全な形での実施は不可能と苦渋の判断をし、山、海、それぞれで、できる範囲のお祭りをしようということになりました。

祭りの当日、山の方では、朝に厳島神社を神輿が出発し、近所の集落を一周しました。衣装も満足に揃わず、あり合わせの粗末なものだったそうです。午後には厳島神社で鰤切りをしています。当時は魚も制限があり、簡単に入手できるものではありませんでしたが、角島出身のお嫁さんがいたそうで、そのつてで角島で鰤を準備してもらい、隠すようにして神社まで運んで来たと記録に残っているそうです。神事が滞りなく済んだ後は、若者を中心に演芸・歌謡大会となり、大いに盛り上がった、とされています。

長い伝統のあるお祭り、途絶えてしまうと、復活させることは困難です。
今日の浜出祭があるのは、この時の、粗末な衣装でも、海までたどり着けなくても、戦後の苦しい時代でも、なんとか伝統を繋ごうとした先輩方の魂があってこそです。

先生はさらにおっしゃいました。
700年の間、私たちの地区で、この祭を続けるために、貧乏になった人もいるでしょう、と。
この祭りのために、馬を世話し続けなければならなかった家があるでしょう。いろいろな制約を受けた家もあるでしょう。ひとつのことを、700年も続けて来ている、これは並大抵の努力ではないのです、と。

このお話には、グッとくるものがありました。
変えていくだけがまちづくりじゃない。受け継ぐものもたくさんある。

しかしその数分後、私は思い知ることになります。

「でも、それとこれとは話が違うんじゃ!放談会ィ〜ッ、クソゥ、ギリギリギリ〜!」

なんてオチだ。

 

※ 今回、一般的な「浜出祭」という表記を使用しています。文中にありますが、正しくは「浜殿祭」だそうです

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